昭和五十一年一月二日 朝の御理解
御理解 第八十三節 一年に分限者になるやうな心になるな。先は永いぞ。一文二文と貯 めたのはみてる事はないが、一時に伸ばしたのはみてやすい。神信心をすれば、我慢我 欲はできぬぞ。ぬれ手で粟のつかみ取りの気を待つな。人より一年遅れて分限者になる 気でおれ。
人より一年遅れて分限者になる気になれと。
昨日は元旦祭で、まあ沢山の人がお引き寄せを頂いて、いわゆる正月の有り難い気分を皆んな満喫して帰られ、また一年の計を、お祭を頂きながら、心に定め、今年もいよいよやるぞという心を汲んで、心を作って、まあ帰られた事だと思います。
昨日ちょうど、千四百、何十名かのお届けがあっております。この前の大祭の時とほとんど変わらない。その方達がそれこそ、今年はやるぞと、今年はちょっとうんと儲けさしてもらうぞと、いうようなのではなくて、私は信心で心が決まる、心が定めるということはどういうことかというと、人間の幸福の源泉、その源というものは、先ずは魂の清まりにあるのだという事をわかって帰り、いよいよ本年は大きな信心をさして貰おう、そのためには大きな心にならなければならない。寛大な広い、いわば深い豊かな心にならせて頂こう、それは幸福の源泉、先ずはというとこ、先ずは魂の清まりにあるのだということを、まあわかって全部が全部という事じゃないけれども、私はこのことを繰り返し繰り返し申させて頂きましたから、皆さんもその心ぐみで帰られたことだろうと、こう思う。
皆さんもお参りになっとられたから、どうだったでしょうか。
いよいよ、今年は本気で大祓信行に取り組まして頂き、しかも家族中の者が同盟を結んで、本気で大祓信行を、これはおかげじゃない。おかげば頂かんばならんから、大祓信行するんじゃない。もう、ただ無心に、ただ大祓信行によって心が清まる、信心辛抱力ができると言われるのであるから、信心辛抱力をつくるために、心を清まることのために一心不乱、いよいよ大祓信行に取り組もうぞと、決心して帰った方達がほとんどであっただろうと、まあこのことばかりを私は申しましたから。お話をさして頂いておって私が言うことがです、本当にそのたくさんな、人達がお話を頂いておられる。何か知らんけど、お話をしながら感じたんですけれども、ちょうど大地に水をまく様な感じでした。私の言うておることが、もう一つ一つ受け取られておる。向こうの心の中に吸い込まれておる様な思いで、昨日お話をさして頂きました。
ですから、例えば今日の御理解でいいますと、いっちょ今日はどうでも元旦から一つお参りさせて頂いて、今年は一つ開運のおかげを頂いて、商売大繁盛のおかげを頂く、と、まあ思うて参った方たくさんあるかも知れません。けれども金光様のご信心はそういう願いもさせて頂けれるのだけれども、先ずは魂の清まるが先だということをわかる。ね、私は人より一年遅れて分限者になる事はそういう事だと思うです。
昨日はいろいろなお話を聞かしてもらった。私はとうとう会いませんでしたけれど、私が商売をしておった時分に私がもういよいよ商売に行き詰まってというか、もう信心にもう没頭しておる、打ち込んでおる、その時分に大変親切な方ですから、「大坪さん、あなた商売をすりゃあもう本当に人並み以上のあんた腕を持ちながらです、破れ服を着て、破れカバンを下げち、破れ靴を履いて、あなたがその自分がたの家の前をいつも通られるからそれを見ておる。どがん思うたっちゃ気の毒でたまらん。私は終戦まではお宅のお父さんにこうやって大変ご迷惑をかけてから、ああいう時代もあったけれども、今は終戦後、私は私どもの町では一番、儲け頭とみんなから言われるくらいに儲けだしとる。」とこう言われる。その方もなかなか商売人です。「だから大坪さん、本当悪いことは言わん。信心もほどほどにして、そして商売の方にちっと身を入れなさったらどうですか。応援はさしてもらうから」ということでしたけれども、私がそれを聞きよったらおかしゅうなってからね、私が大笑いしましたから、「あんたばっかりはいっちょん言うでんきけん」と言うて、言われた人が昨日その人のお母さんが参って来てました。
そして、まあいろいろ本当にここの先生がそれこそ金光様、金光様の一本でいかれておったが、大したおかげを受けられたもんじゃあると言う事でございました。
昨日、そのお初穂の整理をさせて頂きますのに、椛目の妹と繁雄さんと二人で、栄四郎と三人で致します。昨日は私も手伝わせて頂いて、さして頂きながら妹がそのことを話すんです。先日、テレビを見せて頂きよったら、東京の《都知事》さんは何とかいいますね高橋さん、東京の…。あぁ、美濃部さん。美濃部さんが月給が九十万だそうですね。これが日本一だそうです。東京の《知事》さんですかね、美濃部さんが月給が九十万円げな。そしてみるとこちらの親先生あたりは、月六百万からの(笑)給料取りなんだから。まあちょいと、ほんに《知事》どんが勝つこっちゃなかという話を妹がしておりました。そして、今聞かせて頂いた、二十何年前に「大坪さん悪いことは言わんて、信心もほどほどにして商売すりゃあんた人並み以上に出来るとだから、商売に打ち込んだらどうか。応援はさして貰うけん」と言われるから、そんなら一つ金儲けん方ば先にしようかと言うて、なら私が商売人になっとっちゃ、とても月六百万の月収を上げきらんと思います。しかもこれは月々上昇中ですから、まあだわかりません。
一つ今日のここのところを皆さん、一つわかって頂きたい。おかげを先に、おかげおかげじゃいかんです。まず昨日の話を聞いて下さった方は、その決心が言うならば、一年の計は元旦にありと言われるくらいですから。今年こそいよいよ、幸福にならなきゃならんこりゃ誰でもなりたいと願っておる。その幸福の源泉はまずは、魂の清まりにあるということをです。わからにゃいかんです。信心しておってもです、なら御利益、御利益のことだけで、ね。なるほどお願いに来る、お取次ぎを頂くからおかげを受けるんです。
そりゃ例えばこの年末の皆さんのおかげというのは、もうとにかく恐ろしいほどのおかげでしたです。特に商売人の方達の場合。ね、この不況時代に、もうどうにもこうにも正月が、いうならば切期が越せんと言われる様な方達がです。もうそれこそ梳き櫛で梳いた様に、もう不思議な不思議な働きを頂いておかげを頂とるです。皆が。
ある人なんかもういよいよ倒産を覚悟しなければならんというお届けに来ました。けれども私は三十一日までは、お願いをしよる。また、皆なおかげ頂く様にお願いしよるけんそげな悲観的なこと言うちゃならん。もう不思議な事に銀行はですね、金額は五百万あまりでしたけどね。その取立をされておる、それをですね、三年間か四年間に分割して払ってよいという様な話が出来たんです。もう大変喜んでですね。それでまあ問題は、保証人の問題ですから、いつもお願いをする、まあ判を捺して下さる、いうならば保証人になって下さる方がある所へ喜びをもって、こうでしたけんおかげで今度は助かると言って行ったところが、向こうの方から、もうこっちの出ようが悪かったと。大体夫婦で来なきゃいけんのが、嫁御だけやったというのでもう剣もほろろにそれこそ蹴られたわけです。そこでもう倒産を覚悟するほかに仕方がなかったのですよ、ね。
ところがね、年末ぎりぎりに先方の方の人が判ば持って来てやって来てくれた。ほんなこつ言うならですよね、あげん言いよったばってん判だけ捺してやるけん、まあ来んのと、まあ、まあ一遍出て来んのと言う【 】。向こうの方からやって見えて、いわば判を捺しにみえた。おかげでぎりぎりおかげを頂いた、といったのもあります。
まだその話をするなら、昨日佐田さんところのご親戚の神戸から夫婦で参って来てちょうど、昨日一時のお祭の十五分前にここに到着。神戸から参って来た。
そりゃもう本当に、それこそ神様の働きにただ、恐れ入ってしまう。という様なおかげ、お繰り合わせに大変おかげを頂いておる。だから、おかげは受けるです。しかし、これはですね、私は大したことないと思うんですよ。
問題はその本当のおかげの受けられる、源というもの、素が出来なければ。その素はどこかというと、おかげのあるもなきもわが心と仰るのじゃから。ね、幸福の源泉は先ずは魂の清まり。この、先ずはというところを皆さん、今日は皆さんに聞いて頂いているんです。
人より一年遅れて分限者になれと、と言う事はです、私はそういうことだと思うのです。一年に分限者になろうと、てんなんてんいう様な思いは捨てろと。先ずは魂の清まりから。
昨日、信徒会長の秋永先生が、朝の御祈念に参って見えた。除夜祭を頂いて帰られて、家で、御神前の御用やらさしてもらいよったら、もう二時半になった、で、もうそのまままた、朝の御祈念に参って来た。それからまた帰ってまた、家族を引き連れてお祭に参って来んなりませんから、まあいうならば信心に没頭しておられる姿です。
昨日、御祈念の後に「親先生、今年の私の信心のいうならば焦点というものは、どこにおいたらいいでしょうか」。「そりゃあ、あなた今朝、御理解頂いた通り大きな信心です。大きな信心とは、結局大きな心になる事だと言われるから、もうそれだ」と、私は思うたです。けれどもまあ、お伺いされての事ですから、神様にその事をお取次ぎさせて頂きましたら、頂きますことが『砌』ということ、何々の砌(みぎり)ということ手紙に書くでしょうが。石を書いて、切ると書いてある。『砌』という字を頂きました。そこで、その『砌』という字を字引を引いて見られたら、なるほど大変深遠な意味があります。けれども私が直感したことは、ここではあの字をいつも分解して、崩してそして頂くので、石というのは心の事であろうと、こう思う。石という、意思は心のこと。その、それを切るという事である。いうならば、自分のおかげの頂れる心、または自分の心の中にそのおかげの邪魔する心が、お互いあるという事です。
いうならばね、人間の心の中には、仏と鬼が同居しておると言われております。どんな人の心の中にも仏心、神心はあるのです。かと思うと、自分がもうそれこそびっくりする様な、鬼の様な心がその裏にひそんでおることを発見するのです。
もう何て浅ましい心じゃろうかと、まあ何ていう汚い心だろうか、とか。それが、さておかげを受けていくのに、自分はおかげの受けられる心の状態とそのおかげを邪魔する心が自分の心の中に同居しておる。ここんところに、見切りをつけてね、改まっていくということ以外にないのじゃないでしょうかと、まあ、申しましたことでございました。
だから、その『砌』の方がまずは先だという事です。幸福の源泉は、先ずは魂の清まりから、先ずは改まりから、という事になるのです。
昨日、私贔屓の方ですから、こそ、私にそういうふうに言うて下さった。二十数年前に、「大坪さん商売をしなさいて。あなたは本当に商売は大体上手だから、あんたとこのお父さんにお世話になっておったから私はいうのだけれども。応援はさしてもらう。いっちょ金光様のご信心もほどほどにして」と、言われた方がです。昨日はさすがに本当に金光様のおかげ、働きにはもう恐れ入ってしもうた、とこう言う。それを聞いて、妹がお初穂整理させて頂きながら、それやらこれやらを話すなかにです、ね、東京の美濃部さんが月給九十万ということじゃが、こちらの先生がもし、ここのいうならばお下がりが先生の給料というならば、現在六百万の給料取りであるという事になるのです。いうならば私が使おうと思うならば自由に六百万を使うても良いおかげを受けておる。しかもそれはそれに止まっとるのじゃない、只今いわば上昇中ですから、もっとこれは七百万になっていくでしょう、八百万にもまたなっていくでしょう。とてもとても、人間がいくら成功したからというて働くことにいうならば熱中したからというて、いうならば最高の給料取りでは勝たんということになるのです。神様のおかげにはかなわんです、ね。(笑)
そんなにいうならば濡れ手で泡の掴み取りになろうという気持ちも何にもない。ただ、本気でありがたくならしてもらおう、本当に喜びの生活が出来る事のためには、その喜びを邪魔する、その喜びの障害になる心をまずは取り除くことがです。まずはそれが先決であるということ、ね。そこんところを今日は、一年遅れて分限者になる気になれと、ということはそういうことであると思います。なるほどお願いをしておかげを頂く、ではなくてね、そのおかげをしばらく置いといてもです。ありがたい、勿体ない方を頂いてね、[ままになるお米を潰して神酒にする]といった様な事を頂いたことがあります。お願いをすればおかげになるのだけれども、今おかげ頂くよりも、そのままになる米を貯めといてそしてそれで神酒を作れというのです。ままになるお米を潰して、おかげを潰して、いわゆるお徳を受けるというのです。
昨夜、昨日はちょっと遅うなりまして、十二時過ぎました、ここへ出て来るのが。それで御祈念をさして頂きながら、今日は皆さんに聞いて頂いたここんところ、口を開けばそう申します。皆一つ大祓信行に取り組ましてもらおうと。親子同盟、夫婦同盟さして貰おう。一家を挙げてこの信行に取り組ませて頂こう、と皆に言っておるのに、私はそれをしていないということはそんな事でいいだろうか。私もやっぱり皆さんに勧めるからには私も、先に立ってするのが本当じゃないだろうかと、私はふっと思ったんです。
そしたら神様からね、頂くことがね、あのぅ昔のお酒の一升瓶は、上に陶器の栓がついてまして金で、こう押さえてあの栓をしてましたよね。金がこう付いているんですよ。そして、金を上に上げると栓が上にポッと上がる。下に押さえると栓がピシッと閉まるという王冠の前は全部あのお酒はそげんでした。それを頂いてですね、こう抜いたところから栓をこうキチッとするところを御心眼に頂くのです。お前の信心はどういう事かというと私が朝から頂いておるこのありがたき、勿体なき畏れ多きという、ありがたいという心が希薄にならない様に、気が抜けない様にする事だけに焦点を置けばよいというお知らせを頂きました。だから大祓信行をさして頂くということもこれは取りも直さず無条件にです、御神前に一生懸命一心不乱の大祓信行さして頂いておると、心が虚しゅうなって、心が清まってきて、ありがとうなってきて、本当にありがたい心が頂けれる、いうならば稽古なんです。
だから、私が先日もあの十三日会の時申しました様に、大祓十巻も上げる二十巻も上げるというおかげを頂いて、その大祓が十巻が五巻になり、五巻が三巻になり、三巻が一巻になり、いうなら私の御祈念の四時の御祈念などはもう柏手一つ打たんでただ、心中祈念だけでもうありがたい、勿体ないが入ってくる様なおかげを頂くことのための大祓信行なんです、ね。
だからそういう心の中にありがたいものを頂かせて貰えれるおかげを受けること。とにかく、そんなら本気で一つありがたくならせて頂こうということの方が先ずは先決であるという事であります。
おかげを頂かん〔ならん〕いやおかげを頂くという事よりも、まず信心がわかるというよりも、まあ、ありがとうなるという事です。まずは自分の心の中におかげの邪魔になるような心があります。お互い、その心を取り除かせて頂くことがまずは先決だというのです。心の濁ったまま、心に受け物もないままおかげを受けるから、その頂いたおかげで却ってけがをする。却っておかげを落とす結果になってくるのです。
頂いたおかげがいよいよ、おかげがおかげになり、おかげが力になり徳になりという様な一つおかげ、ね。例えばならここでおかげを受けておる事実がです、ね、やはり年まさり代まさりにおかげを頂いていく。去年の大晦日の晩まで入れますと、二十七万四千名という人が合楽にお参りをして来ております。だから、来年は三十万になる。その次にはまた三十一万になるといった様にです。ね、例えて申しますなら、そういう私は進展というかそういうおかげの頂けれる基礎、土台を頂かにゃいけん。
昨日の朝の御理解にいうならば、「楠太りの信心」でなからなければいけない。この信心なら絶対、楠太りになるという見極めの信心を先ず見極めなければいけない。そしてその信心にいよいよ精進さして貰わなければいけない。いよいよ楠太りのおかげを頂かしてもらう。そんためには先ずはです、今申します様に、濡れ手に泡の掴み取りになるといった様なことではなくて、ただおかげ、おかげではなくて、先ずは魂の清まりを先決とさして貰う信心をいよいよ身につけて行かなければいけないと、いうことになりますですね。どうぞ。